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霧雨にけぶる鏑川

鏑川白鳥を守る会 (平成27年度版)



霧雨にけぶる鏑川  (7月は河川愛護月間です)



  鏑川(かぶらがわ)
南八幡南部を東流している鏑川は下仁田町の西部、長野県境の矢川峠付近より源を発し、ほぼ東に流れて下仁田町、富岡市、甘楽町、吉井町を貫流し、阿久津町で烏川に合流する全長34km利根川水系の一級河川です。この鏑川は、荒船山(あらふねやま)の頂に水の湧く池があって、そこから流れ出ており、鏑川の水は富岡から東の方に住む人々の生命の源でもあります。そして古代には、この谷に外来人が多く住んでいたので、「から」の谷ともいわれていた。また、この地域の人々は養蚕、製糸、機織りにすぐれていたので、鏑川はその水を供給していた。古代にこの鏑川の谷に住んだ人々は、その水源の荒船山を神にまつっていた。それが、貫前(ぬきさき)神社である。ところが、7世紀ころになると、「物部(もののべ)」(武器の製造や管理を職業としている人々の集団)が碓氷郡の方から入っていって、勢いを得て来た。「物部」は大和の石上(いそのかみ)神宮を氏神としていたので、その分社を貫前神社の近くにまつっていた。これが抜鉾(ぬきほこ)神社である。平安時代の後半、12世紀ころになると、抜鉾神社は「武」の神と考えられるようになって、武士に崇敬されるようになり、貫前神社はあるか無きかの有様となってしまい、ついには抜鉾神社が上野国(こうづけのくに)の一宮(いちのみや)となっていった。抜鉾神社が武士の神となると、それに関係のある諸々の名も、「武」に関係あるものにされていった。鏑川はもともとは甘楽(から)の川であったろうが、それを、「かんら」、「かむら」とよんだために、「かむら川」となって、「鏑」の文字があてられるようになった。「鏑」は 「かぶら矢」で合戦の最初に射あって、戦争の開始をつげる矢であり、抜鉾神社に関係づけられてしまった。それから明治維新まで、抜鉾神社は「武」の神とされた。鏑川はこの様な時代の様相でその名がきまっていったようである。
                                                                   尾崎喜左雄著:「群馬の地名」より


                                                      
 鏑川築堤工事の歴史 
 南八幡地域は、烏川と鏑川とでできたデルタ地域に位置しているため、過去に多くの水害を受けた歴史があります。特に昭和10年9月21日~26日にかけての台風にともなう水害による被害が甚大であった。そのために烏川・鏑川の築堤工事が始まり、昭和12年に一本松橋から阿久津合流点までの約3㎞の烏川堤防が完成、3年後の昭和15年に鏑川橋から阿久津合流点までの約4㎞の鏑川堤防が完成しました。


  
    この石像はアジアの道祖神 (守護神・疫病神)
      名前は白鳥おじさん (トルハルバン) 
        《右腕が上だと知力 左腕が上だと武力》を表します
    
     白鳥は、日本を始め韓国、中国等東南アジア圏に飛来します
     各国では昔から幸せを呼ぶ鳥、白鳥の保護活動をしています
     秋から春にかけて当地に飛来する白鳥を、見守る道祖神です

  

 この石像は、MMファーム(箕輪農園)に設置してあります。
 2014・12 鏑川白鳥を守る会  箕輪 愃







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